有明の空に銀の月

痩せこけた赤土が風にさらわれてふわりと舞った。
先の王が崩御してから、何年もの月日が流れた。何処で道を誤ったか、暴君と化していた先の王、 梟王の非道ぶりで、雁国はとても人が暮らせるとは思えない、酷い有様になっていたのだ。
それからしばらくたって、ようやく新たな王が即位し、十年が過ぎた。復興作業は順調と言ってもいいが、 まだまだ朝廷も民の生活も安定してはいなかった。







「尚隆」

結構な量の書類を抱えて部屋に入ってきた六太は、辺りを見回して嘆息した。

「こんな夜中に何処いったんだよ」

机の上には乱雑に書類が積まれており、使っていたと思われる筆が転がっている。立ち上がった形のままの 椅子から、確かにそこに居たことが分かったが、当の尚隆の影は何処にも無い。開け放たれた窓からは、 潮の香りが月光と一緒に入り込んできていた。
六太は手に持っている書類を机に置くと、額の汗を拭った。

「まったく、酷い目にあった。帷湍も朱衡もどうしてこう、俺にあたるかなぁ」

あそこで声をかけるべきではなかったと、今更ながらぼやいてみる。
もう就寝の時刻だからと部屋に戻された六太は、しかし眠れずにいた。何故だか分からないが、 妙にそわそわして落ち着かないのだ。仕方が無いから散歩でもしようと外に出たのが、 そもそもの間違えだった。廊下をでたらめに歩いて行くと、ばったりと二人に出会ってしまった。出会ったと いっても奴らは隅で話し込んでいて、こちらの存在に気付いていなかった。六太は脅かそうと思い、 帷湍の背後に忍び寄り、背中を押した。

「わっ!!」
「わぁあぁぁっ!!」

帷湍はびくりと飛び上がり、慌てて後ろを振り返った。

「た、台輔、何をなさるか!!」
「へへへ。びっくりしたろ」

予想通りの反応で、さも得意げに笑う六太に、帷湍は眉を潜めた。

「びっくりもなにも寿命が縮まったわい」

わざとらしく左胸を押える帷湍に、六太は嬉しそうにくっくっと笑う。

「ところで台輔、こんなお時間にいったいどちらへ?」

それまでにこやかに笑って傍観していた朱衡が、帷湍の背中を擦りながら言った。

「ん?特に行くところはないんだけど・・・。なかなか眠れないから、散歩してただけだし」
「それはそれは贅沢なことで。私たちはきっと今日も徹夜です」
「まったく、どっかの馬鹿殿のせいでな」
「だよなぁ」
「台輔、貴方も相槌を入れられる立場ではないのでは?」

腕を組んでうんうんとうなずいていた六太は、朱衡を見上げてきょとんとした。

「台輔も少しは仕事をしてくれ、ということだ」
「え?俺?」

六太は交互に二人の顔を見比べて、思わず一歩後ずさった。

「というわけで、無駄に起きているのならこれを主上のところまで運んでください」

朱衡が言って、帷湍が朱衡から受け取った書類の束をそのまま六太へ渡す。

「はぁ?」

六太はしばらく書類の束を眺めていたが、や、まて、と二人を睨みつけた。

「なんで俺がこんなこと!!だいたい朱衡も帷湍もこんなところで井戸端会議する時間があるなら、 こんな、書類を持っていくだけなんて余裕だろっ!!」
「私たちは無駄に話していたわけではございません。明日の朝議について話し合っていたんです」

きっぱりと言った朱衡に帷湍が続く。

「さあ台輔、『書類を持っていくだけなんて余裕』なんでしょ?ほら、行った、行った」

そして今に至るのである。
六太は、はぁとため息をついて、露台に出た。もうすっかり初夏の気温で、夜風が心地よい。雲海越に 見る関弓は夜遅いせいか、暗くてほとんど見えなかった。

「・・・もうすこし」

そう、もうすこし待てばきっと豊かになるはず、雁国に緑が戻るはずだ。しかし、最近尚隆は関弓に降りる ことが増えてきて、まともに仕事をしていない気がする。そりゃあ仕事をさぼりたい気持ちは六太自身、 身をもって分かっているつもりであるが。

「けどなぁ。ほんとに、尚隆でよかったのかな」

最近では些か不安になってきた。徐々に復興してはいるが、まだまだやらなければならないことがあるはずだ。

「それなのに尚隆は・・・」

六太は暗くどんよりとした雲海を見渡した。この水の下の赤土には、まだ死ぬか生きるかのせとぎわで、 彷徨っている民がたくさんいる。尚隆にはその民が見えているのだろうか。

「雁を生かす王か、滅ぼす王か」

王は国を滅ぼすものだ。王が居るからいけない。尚隆に最初に会ったときはっきりと思った。

――― こいつが雁を滅ぼす王だ、と。









坊、ここにいろな。すぐに戻る。いいか、動くんじゃねえぞ。
うん、大丈夫。ずっと待ってるから ―――。









ギィーと、建付けの悪そうな音と共に扉が開かれたのは、それから数時間経ってからだった。
中に入って尚隆は、露台でぼんやりしている六太の姿を見つけて驚いた。

「そこで何をしているんだ、六太」

しかし六太からの返答はなかった。不信に思って少し近づいてみるが、振り返る気配は全く見せない。

「どうした?もう寝たのではなかったのか?」

言いながらぼろを脱ぐ尚隆に、やはり六太は答えなかった。

「何をむくれている?」

六太は俯いたまましばらく黙っていたが、やがて顔を上げてだんだんと白味を増してきた空を仰ぐ。そして 振り向くことはせず、ただ口を開いた。

「俺さ、親に・・・捨てられたんだ」

尚隆はふと動きを止めた。そして、数泊間を置いてから短く答える。

「・・・ほう」
「戦火で家を焼かれ、食べるものもなくて、子供を減らすしかなかったんだよなぁ」

尚隆は黙って六太の背中を見つめた。麒麟は民意の象徴だというが、小さく頼りないその背中は 雁国の民を写し取っている。

「雁でも、きっとそれがある。今も、親は子を捨てる算段をしているかもしれない」

尚隆は露台に出ると、そっと六太の横に並んだ。

「そうだな。だが、そういうことをしないでもいい国にする為に、俺が居る」
「でも、お前は仕事をサボって下に降りてる」

尚隆は六太の顔を見た。普段と変わらぬ子供の横顔は、しかし、苦渋をはらんでいた。

「なんだそれで怒っていたのか。かなわぬな。お前は俺が遊び呆けていると思っている」
「違うのか?」

六太が弾かれたように振り向いた。視線がかち合う。互いに一歩も引かぬと見詰め合って数秒、 先に視線を逸らしたのは尚隆だった。雲海に背を向けるかたちで手すりに寄りかかる。

「やれやれ。お前だけは信じていてくれると思っていたんだがな。俺はわざわざ関弓に降りて、 ただあぁ楽しかったと帰ってくるわけではない。国の視察も兼ねている」
「いい訳に聞こえる」
「何とでも言うがいい。確かに復興してきた国を見て歩くのは楽しみの一つだ。その事実は認めよう。しかしな、 それをやめてここであーだこーだ言ってればいいというのか。誠の国の姿をこの目で見ようとせず、 それでは国はいつまでたってもよい方向には行かないのではないか?ここから降りて初めて知ることもある。今夜も 路地をうろついてきたが、土地も家もない民がそこらで転がっていた」

六太は、え?と小さく声をあげた。

「最初よりは数が減ってきたが、どうにかせねばなるまいな。まだ他にもあるぞ?」

六太は唖然として、話し続ける尚隆の横顔を見つめた。尚隆は、見えていたのだ。知っていたのだ。劣悪な 環境の中に民が居ること、そして自分が背負っている地位の重さを。尚隆は、王だ。

「尚隆」
「ん?なんだ?」
「ごめん」

尚隆はふっと笑って、六太の頭の上に手を乗せた。叩くでも撫でるでもないその手のひらは、優しく、 大きく、そして暖かかった。初めてこの国に来たとき、そっと肩に乗せられたあの手と同じだ。変わることのない意志。

「お前が俺を選んだんだろう」
「うん」

尚隆が、王なんだ。
頷いた六太を満足そうに見やってから、尚隆はそれとも、と付け足した。

「この小さな頭じゃそんなことも覚えていられないのか。そうだな、姿かたちは鹿と馬の中間なんだ。いっそのこと字は 『馬鹿』でどうだ?」
「は?なんだよそれ!!」

六太は頭に乗せられた手のひらを反射的に払い落とした。対する尚隆は気にした様子もなく、 いつもの様に余裕の表情を浮かべる。

「さぁ、もう部屋に戻れ。もうじき夜明けだがな、数時間くらいなら眠れるぞ」

すたすたと部屋に戻っていく尚隆の背中に、六太はこっそりと呟いた。
まだ信じられなくなる時もあるかもしれないけれど、王の存在を嫌う心も消えたとは言えないけれど、それでも。

――― 待ってるから。この国が豊かになるのを、ずっと、待っているから。








夜に取り残された銀の月を包むかのように、有明の空は徐々に光を帯びていく。











Top