雪白の桜花・前編

周りを囲む山々は、まるで侵入者を拒むように険しく連なっている。
その所為で、この場所は世間から隔離された、山奥の小さな里になった。
京の都では平治の乱の末、平清盛が政権を握り、武家政権の時代が訪れようとしていたが、 この集落に居る限り世の時代の流れなど関係ないように思われた。
争いの無い土地。ほとんどが自給自足で、他の里との交流もないへんぴな場所だが、 民の誰もが安穏と暮らしている。誰一人、あの高くそびえ立つ山々を越えて、 上洛しようと考えるものはいなかった。都とは反対の渓谷から山を降りる事も出来たが、 安全な道などもう残されてはいなかったし、好きこのんでこんな場所にやってくる変わり者もいない。
そんな里に生まれたものだから、子供の数が極端に少なく、少年と年が近い子供は居なかった。上を見れば、 成人の儀を終えたような年齢の者で、下は今年生まれたばかりの赤子が一人。
少年はいつも一人だった。小高い丘の林に行っては、一人で遊んでいた。

六歳になってすぐ両親を失い、祖父と二人で暮らすようになって間もない頃、暗澹として涙を流すだけだった少年の前に、 一匹の犬が現れた。
その体躯は狼のようで、しかし優しい瞳を携えている。長く栗毛の豊かな尾に、 同じく軟らかく長い栗毛に包まれた身体。耳はぴんと空へ立ち、少年を見つめる優しい瞳は、綺麗な鋼の色をしていた。
山の麓、小高い丘の林の中で涙を流していた少年は、初夏を迎えた山脈から降りて来たこの獣を、 滲む視界でじっと見つめていた。
獣はしばらく距離を置いて少年を見つめ返していたが、そっと近づくと、少年の頬を伝った涙をぺろりと舐め取った。
まるで心配するかのように見上げてくる獣に、少年の涙は不思議と止まっていた。








「タロ・・・タロ!!」

少年特有の、まだ変声期を迎えていない甲高い声が山間に響いた。

「タロ?何処に行ったんだろう」

不安げに辺りを見回す喜助(きすけ)の後方で、小さな雪だまを無数にくっつけた栗毛の尾が、 雪の合間からひょっこりと覗いた。

「おぉーい、タロ!! ご飯だぞー」

ご飯という単語に、続いて覗かせた耳がぴくりと反応する。尾を一振りした後で、タロは一つ吠えた。
その声に弾かれるように振り返った喜助が、喜々とした笑みをこぼす。大好きな愛犬の名を呼びながら 両手を広げる喜助に、尾を千切れんばかりに振って、タロは喜助の許に駆け寄った。抱き締めようとしゃがみ込んだ 喜助に飛び掛って、ぺろりと頬を舐めてくる。喜助はくすぐったそうに笑った。

「何処にいたんだよタロ。あぁ、こんなに雪だまが付いてる」

喜助はタロの身体から雪を丁寧に取ってやると、布で軽く拭いて立ち上がった。粗末な着物から覗く喜助の手足は、 寒さで赤くなって既に感覚が無い。それでも喜助は笑った。笑いながらタロをそっと撫でる。

「さ、帰ろう」

喜助にとってこの犬は友達同然だった。共に遊び、共に笑い、共に寝る。この小さな友達が何より 大切だった。自分を見上げてくるこの獣が、誰よりも好きだった。








青葉の生い茂る林でタロと出会い、喜助に笑顔が戻ってから一年と半年が過ぎようとしていた。今ではもう その林も白銀の大地に覆われている。
夕方、里の中央で雪かきが始まった。明日の『雪祭り』に備えるためである。
雪祭りとはこの里特有の文化で、冬の寒い晩に巨大なかがり火を焚き、天に登る白煙に向かって祈ると 願いが一つ叶うという祭りである。
そのかがり火のために、里の中央の雪を全て退かさなければならなかった。
喜助の祖父も雪かきに駆り出された為、喜助は大人たちの邪魔にならないように、山脈に隣接したあの林で タロと遊ぶ事にした。
日のあまり当たらない林の中は、思った以上に寒かった。喜助は家から持ってきた厚めの布で身を包むと、 タロを追いかけて走った。木々の間をすり抜けて駆けるタロは、いつもより勇ましく見えた。
ふと、一本の木の前でタロが立ち止まり、根本の辺りをくんくんと嗅ぎ、幹をたどるように視線を滑らせて空を仰いだ。
喜助は何があるのかと同じように空を見上げたが、薄く白い雲の合間から久しぶりに顔を見せた蒼穹があるだけで、 なんら変わったものはない。
しばらくして喜助は、タロが見ているものは空じゃないと悟った。木だ。他の木々とは異なり、 細い枝を地面に向けて垂らし、まるで唐傘を広げたような形を造っている。桜だった。喜助が腕を回しても 抱えきれないほど成長した、しだれ桜。

「タロ、この木はしだれ桜って言うんだよ」

その言葉を理解したのか、タロは尾を一振りして喜助を振り返った。

「タロは見たこと無い? 里の真中にもこれと同じ木があるでしょう。雪が解けて春になるとね、この細い枝に、 赤い小さな蕾をつけるんだよ。それから暖かくなるとね、とっても綺麗な花が咲くんだ」

青空に淡い桃色の花弁が舞う光景を想像し、喜助は破顔一笑した。

「この木の下に立っていると、桃色の花びらがね、まるで雪みたいに空から降ってくるんだ。タロにも見せたいなぁ」

目を細めて桜の木を見上げた喜助に、タロは嬉しそうに尾を振った。

「タロ、春になったら桜を見ようね。桜の木の下で、一緒に見ようね」

喜助はタロの頭を優しく撫でた。にっこりと笑う喜助に、タロも尾で答える。
その瞬間、割と近いところで獣の咆哮が聞こえた。
喜助の背に嫌な悪寒が走る。こんな山裾で獣の鳴き声を聞くのは初めてだった。
今年はいつもより早く雪が降った。山の恵みを覆い隠してしまう雪は、そこに住む獣たちにとって疎ましい 存在だった。山で食べる物が取れないと悟った獣たちは、まれに里に降りてくることもあるのだと、 祖父が言っていた気がする。

「タロ、戻ろう」

緊迫した雰囲気の喜助にタロは不思議に思ったが、来た道を戻る喜助の跡に続く。
また、あの咆哮が響いた。先程より距離が縮まった気がする。逃げなきゃ、と思う。思うのだが寒さと恐怖で 足が思うように動かなかった。タロも何か感じ取ったのか、耳を高く伸ばして、きょろきょろと辺りを見渡す。
瞬間、雪の上の足音と共に、腹をすかした狼が一匹、響くような低い唸り声をあげながら、 木々の間からぬっと顔を出した。

「――― っ!!」

大きく裂けた口から見える鋭利な歯に、喜助は息を飲む。震える足で後退るも、雪に足をすくわれて後ろに 転んでしまった。しりもちをついた格好の喜助に、狼はより低く唸って近づく。
喜助はがたがたと振るえながら、手に掴んだ雪を狼に向かって投げつけた。しかしそれは目標にかすりもせずに落下する。
目の色を変えた狼が、ゆっくりとした隙の無い足取りで距離を詰め、一瞬動きを止めた。
――― 来る!!
それからの映像は、やけに遅く感じられた。この上なく目を見開いたまま、狼の動きを追う。飛び上がった 狼の足元から、純白の粉雪が舞い上がった。鋭利な牙に視線を絡め取られて、喜助は目を閉じる事も 出来なかった。頭からつま先まで、言い表せない何かが貫いた。
その時、視界の隅で黄褐色のものが動いた。それは一瞬のうちに目の前を覆う。次の瞬間、雪の白に反した 真紅の液体が宙に舞った。狼は弾かれて転がり、雪の中に埋もれる。
喜助は一瞬、何が起きたか分からなかった。急に目の前に飛び出したものと、今、鮮血を流しながらしっかりと 雪を踏みしめるものが、タロだと理解するのにも時間がかかった。

「・・・・・・タ・・・ロ」

喜助を守るように立ちはだかる、その小さな背中が、左の肩から流れ出た血に濡れていた。
喜助の声に答えるように、長い尾を一振りしてから、起き上がった狼と再び対峙した。全身の毛を逆立て、 尾を空にぴんと立てたタロは、喜助の聞いたことの無いような低い声で唸った。
狼はまた牙をぎらつかせ、タロに飛び掛る。タロも応戦するように向かってくる狼に襲い掛かった。二匹は 転がりながら争い、そのたびに純白だった雪に赤い染みが生まれていく。
震えながら伸ばした喜助の腕は、何も掴むことなく下ろされた。何かが喉に詰まって、声が音になることも なかった。ただ呆然と、タロと狼を見つめる。
タロは狼を押さえつけると、首筋に思い切り噛み付いた。キャンと甲高い悲鳴をあげて飛び退いた狼は、 しばらくタロと睨み合った後、木々の間を山脈に向けて走り出した。タロは追いかけようとはせず、 尾を立てたまま狼の背を見送った。

「タロ!!」

我に返った喜助は、まだ震える足で立ち上がりタロの許へ駆け寄った。
タロは振り向き、誇らしげにワンと吠え、嬉しそうに尾を振る。

「ありがとう。ありがとう、タロ!!」

タロは伸びてきた喜助の手をぺろりと舐め、鼻を擦りつける。

「すごかったよタロ!! でも、怪我してるよね。早く帰ってみてもらわないと。大丈夫? 痛い? ・・・・・・タロ?」

喜助がタロの異変に気付いたのはその時だった。目を瞑って体を喜助の腕に摺り寄せたかと思うと、 そのままぐらりと傾いて、冷たく深い雪の中に倒れこんだ。

「え?」

タロの受けた傷は思ったより深く、吐き気のするほど真っ赤な血液が絶え間なく流れ出ている。雪は 濃い桃色に染まり、辺りには血液独特の鉄臭さが広がった。その光景に、喜助は愕然とした。先程とは異なった恐怖が、 全身を駆け抜ける。

「タロ!! い、嫌だっ。嫌だよタロ。目を開けてよ」

恐る恐るタロに触れた手に感じた温もりが、逆に心に痛かった。震える唇で何度も何度もタロを呼ぶ喜助の瞳から、 大粒の涙がこぼれた。

「・・・だめ、だよ。タロ・・・起きてよ。家に帰ろ。ねぇ、帰ろうよぉ」

始まりは突然だった。そして終わりも突然やってきた。傍に居るのが当たり前になっていたのに、誰よりも 何よりも大切な存在だったのに。
流れ落ちた涙がタロの鼻に当たった。タロは薄れゆく意識の中、傍にあった喜助の指をぺろりと 舐めた。泣かないでと言うように優しく、そっと。

それきり、タロが動く事はなかった。