雪白の桜花・前編
喜助の体からすれば大きいタロを必死に抱え、里に降りてきた時にはもう日が沈み掛けていた。
血だらけで泣きじゃくる喜助を目にした里の者は、皆驚き駆け寄ってくる。何か声を掛けられたけれど、
喜助には何も聞こえなかった。もう温もりを感じられないその獣を大事そうに抱えながら、
己の家へ歩いた。視界はぼやけ、何も目に入らなかった。
タロがいない。タロがいなくなってしまった。
全ての色が無くなり、モノクロになった世界に、喜助は悲しみ以外何も感じなかった。
共に遊び、共に笑い、共に寝た。友達だった。たった一人の友達だった。春の終わりに出会った友は、
不思議なくらい意気が合った。日差しの強い日は木陰で昼寝をした。秋になると紅葉が綺麗な林の中で
よく遊んだ。冬になって雪が降ると、嬉しそうに飛び跳ねて走り回った。その日々がこれ以上ないほど楽しかったのに。
もうタロはいない。喜助の腕の中で冷たくなったタロの中には、もう何もなかった。
翌日、目を覚ました時、昨日の事が夢だったのではないかと思い里を探し回ったが、タロの姿を見つける事は
ついぞ出来なかった。
夜になって里が珍しく喧騒に包まれると、喜助の居場所はなくなった。タロの居ない雪祭りなど、
喜助には必要なかった。願い事などないのだから。何も望む気にはなれなかった。
家の中で塞ぎ込んでいた喜助を、祖父は心配して祭りに連れ出した。雪祭りの開場となる里の中央には大きな
かがり火が焚いてあり、そのすぐ隣りに立派なしだれ桜が炎に照らされて、橙色に揺らいでいた。かがり火の前では
里長が正装し、良く分からない言葉で祈っているようだった。それを囲むようにして皆が並ぶ中、
喜助はそっと抜け出した。
雪の上をとぼとぼと歩き、山の麓の林へ着いた時には、温かかった身体が熱を無くしていた。振り返れば
かがり火だけが小さく揺れ、雪と同じ色の白煙が上へ上へと昇っていた。喜助の雪を踏みしめる音以外、
何も聞こえなかった。寒気がするほど静かで、しかし喜助には心地よかった。
ふと、涙が頬を伝った。もう枯れたと思っていた涙が、ゆっくりと流れ落ちた。
その時だった。林の奥から足音が聞こえ、喜助の背後に耳に心地よい音色の声が降った。
「こんな所で、何をしているの?」
喜助は驚いて、声のほうを見やった。そこには男が一人、木に体を預けるようにして立っていた。驚いたからか、
不思議と涙が止まった。
「どうして泣いているの? どこか痛い?」
男は言いながら喜助の傍に歩み寄った。月光に照らされて、喜助からも男の容姿がはっきりと見て取れた。長く
伸びた褐色の髪は背中の辺りで結ばれており、身につけている衣服はここでは見慣れないもので、
喜助のものより良質に見えた。背はすらりと高く、肉付きが良いわけでも花車なわけでもない筋肉質の身体を持つ、
二十代前半くらいの青年だった。
「大丈夫?」
優しく問い掛ける声に、喜助は恐怖を感じなかった。むしろその声は心地よく、喜助の心に響いた。
「今日は祭りでしょう? 君は行かないの?」
「・・・行きたくない」
無意識にそう呟いた。返事を返す気など無かったのに、何かに導かれるように唇が言葉を紡いだ。
「どうして? こんな所に居ても、楽しくないだろうに」
視線を喜助に合わせるように、腰を下ろした青年に、喜助は疑問を覚えた。林の中には家などない。その周りは
険しい山が囲み、人がそれを越えてくる事は無いに等しかったからだ。
「・・・お兄さんは、なんでここに居るの? お兄さんは誰?」
青年は数回瞬くと、人当たりの良さそうな笑顔を見せ、喜助の頭をそっと撫でた。
「僕は叶えたい願いがあるんだ。だからここに来たんだよ」
「お祭りのため?」
そうだよ、と笑いながら、青年は立ち上がる。空を仰いだ青年はどこか寂しそうな目をしていた。喜助は
ふと気になった。この青年の事も、青年の願い事も、心に引っかかって仕方が無かった。
「お兄さんの願い事って?」
そう聞くと、青年は微笑んで喜助を見た。
「僕の? ・・・僕の願い事はね、大切な人との約束を叶える事」
「大切な人?」
「うん。とてもとても大切な人。僕の大好きな人だよ」
喜助は子供ながらに女の人だろうかと考えた。武士が世に侍るようになり、戦や仕事で別れる恋人など、星の数ほどいた。
「約束って、何?」
その瞬間、青年の瞳が僅かに揺れた。悲しげに、どこか寂しそうに視線を宙に彷徨わせた後、空を見やって微笑んだ。
「守れなかった約束があるんだ。その人はとても見たがっていたのに、僕はそうすることが出来なかった。今ごろ
きっと泣いているんじゃないかと思って」
いい終わるか終わらないうちに、視線を喜助に戻した。そうして喜助は、はたと気が付いた。だから泣いている
自分に声を掛けたのかと。その大切な人と自分が重なって見えたんだと思った。
「その人の所へは行かないの?」
それには答えてくれなかった。また悲しそうに微笑んだだけだった。だから喜助も追及はしなかった。行けない
のだと悟ったから。
「お兄さんは雪祭りのやり方を知ってる? あそこにかがり火があるでしょう。あの煙に向かって願い事を
すればいいんだよ」
青年は喜助が示した方向を見やって、こくりと頷いた。そして目を閉じると、何かを小さく呟いた。傍に居る
喜助にすら聞こえない声で。
それから目を開けた青年は、喜助に笑顔を向けた。本当に、ずっと笑っている人だと思った。時々見せる
悲しい顔など忘れてしまうくらいに、優しく微笑む。
「ありがとう」
その声に、懐かしさを覚えた。まるでどこかで会ったことの有るように思えてきたのだ。喜助はただ呆然と
青年を見上げた。
「君は、お願い事はしないの?」
喜助は首を左右に振った。願い事など思いつかなかったから。
「そうか。それじゃあそろそろ里にお戻り。皆が心配しているだろう」
「・・・・・・うん」
正直、戻りたくは無かった。もっとたくさん、この青年と話がしたかった。けれどもここへ来た時の陰鬱な気持ちは、
少しだけ薄れていた。冷たく赤くなった腕を擦って、家へ戻ってもいいと思った。
青年をしばらく見つめてから、里へと足を向け、ふと立ち止まる。
「お兄さんは、帰らないの?」
「僕は・・・もうしばらくここに居る」
「寒くない?」
一瞬間を空けて、青年は平気だよと答えた。喜助は里に向けて数歩進んで、また立ち止まり振り返った。
「お兄さんはどんなお願いをしたの?」
青年は一本立てた指をそっと唇に添えた。そして音を出さずに唇を動かす。それはたった三文字。喜助には
驚くほどはっきりと分かった。
――― 桜。
それが何かと思ったが、内緒だと言うように青年が笑ったので、聞こうとはしなかった。
「・・・叶うといいね!!」
喜助は笑ってそう叫んだ。何故だか気持ちが晴れた気がした。まだ悲しみは残るけど、大丈夫だと
思った。そして里に向けて走り出した時、青年声が背後から喜助の背を押した。
「喜助!! ありがとう。今まで本当に、楽しかった!!」
喜助は驚いて足を止めた。名前だ。教えていないはずの喜助の名を彼は呼んだ。それだけじゃない。良く
見慣れた瞳。人の居ない山から降りて来たこと。そして、桜の約束。そう考えて、喜助は驚愕した。何かが溢れるように、
たった一つの名前だけが響いた。
――― タロ。
弾かれたように振り返った時には、もう何処にも青年の姿は無く、雪の上に獣の足跡だけがぽつりと残されていた。
翌朝、里のしだれ桜が咲いた。淡い桃色の花弁が舞う姿に、里の誰もが驚いた。かがり火の熱で狂い咲きを
したのだろうと言う者もいたが、喜助はタロの願いが天へ届いたのだと思った。
――― 春になったら桜を見ようね。
喜助の目に、もう涙は無かった。天から舞い落ちる雪の華と、良く似たこの桜を見上げて微笑んだ。
「タロ、咲いたよ。桜が咲いた」
その瞬間、視界の隅に昨夜の青年を見た気がした。桜を挟んだ反対側に、こちらを見て微笑んでいる
タロを見た気がした。
大好きだったタロは死んでしまった。しかし、ここにはきっとタロが居る。喜助の隣りに、心の中に、この桜花に。
いつまでも、ここで。